Rua Terezina 95, Adrianópolis
Manaus, Amazonas, Brasil
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マナウス市

更新: 2019年5月23日 12:17

【概要】

 マナウス市はブラジル北部、アマゾナス州の州都。 赤道直下、南緯3度8分にありアマゾン河の河口より河川距離にして1,700km、アマゾン河支流のネグロ河北岸、熱帯雨林の真ん中に位置している。 海抜は、港で40m程度、街中は92mと低いが、街中には起伏が多い坂の街である。 11月~5月が雨季、5~11月が乾季で気候は高温多湿、過去2年の平均気温が28.3度、 降水量は年間約 2,200mm。 雨季では20度程度まで下がり湿度85~90%。 乾季でもスコール性の強い雨が降り、街中では気温は40度を越えることもしばしばである。 年間を通し落雷も多い。

 

【マナウス市章】

       

     市長:     アルツール ネット (政党:PSDB
     面 積:    11,401,092平方km
     人 口:    2,130,264人(2017年、ブラジル地理統計院 ‐IBGE人口推計)

     人口構成: 混血64%、白人32%、黒人2%、その他2%

     主要産業:・第一次産業:森林資源(材木、グァラナ、薬草など)
                    ・第二次産業:木材関連加工業、工業(製造・組立)

                    ・第三次産業:工業製品販売、観光(アマゾン観光、エコツーリズム等)

 マナウスの都市名は、もともとこの地に住んでいた先住部族マナオス(Manaós)の名前に由来している。 マナオスとは、彼らの言葉で「神の母(Mãe de Deus)」という意味がある。1930年頃には「マナオス」(Manaos) であったが、1980年代のポルトガル語表記の改編により、現在の「マナウス」(Manaus) と綴られるようになった。

 アマゾン地域の多くの国立公園、環境保護区に隣接している為、アマゾン観光の中心地としても有名である。 また、旧市街地には開拓時代に建設された欧州風のコロニアル建築が多く残っており、港近くのメルカード(市営市場)にはアマゾン河で取れた様様な種類の魚や豊富なフルーツなどの食材が所狭しと並んでいる。

 市内には外資系の高級ホテルが多数あり、ネグロ河に面したマナウス港は観光客や商人たちで活気に溢れている。 アマゾン河は雨季と乾季の水位の増減が激しく、マナウス港は浮桟橋構造となっていて最大約16mの水位の増減に対応している。  桟橋には日用雑貨などを積み込んで、流域の集落への物流を担う河船やフェリー、漁船等が犇き合っている。

 マナウス市はブラジル北西部で最大の都市であるが、アマゾン熱帯雨林の中に位置し、地理的要因によりブラジル国内の主要都市へは、空路あるいは水路以外に交通手段がなく、まさに陸の孤島である。 (1998年、国道174号線がマナウス~ボアビスタ間の舗装工事完了、ベネズエラを抜けてカリブ海へ通じた)

 国内の主要都市までのおよその直線距離は、ベレン 1,300km、レシフェ 2,840km、ブラジリア 1,930km、サン・パウロ 2,680km、リオ・デ・ジャネイロ 2,850km、ポルト・アレグレ 3,120km。  

 また、1967に経済特区(マナウスフリーゾーン)に指定された為、家電、二輪、時計などの外資系工場の進出により、現在までブラジル経済の発展に大きく寄与している。

 2014年 FIFAワールドカップ開催都市の一つであった。

【歴史】

 マナウス市は過去348年間、極めて数奇な歴史を経て今日に至っている。

 現在のマナウス付近は、17世紀半ばまでアマゾンの寒村に過ぎなかったが、アンデスを超えアマゾン河を下って覇権を狙うスペイン勢を防ぐため、1669年にポルトガル人がこの地に聖ヨセフ要塞を建設し、サォン・ジョゼ・ダ・バーラ・ド・リオ・ネグロと名づけたのが発端である。 その後1832年にマナオス村になった。 1848年にマナオス村はリオ・ネグロ市に昇格し、1856年よりマナウス市に改称され、現在に至っている。 先にも記したように「マナウス」と言う名称は砦周辺に居住していた先住民族、マナオス族に由来した名称である。
19世紀には天然ゴムやコーヒー豆、ジュート(麻)栽培の集積地として開かれて以来、アマゾン内部の経済、交通および流通の要衝都市として繁栄し、19世紀末より20世紀初頭の産業の発展による天然ゴムの世界的需要でマナウス市は巨万の富を齎し、ブラジルのGDPの45%を占めるに至った。

 当時、世界の三大劇場の一つに数えられたオペラ劇場Teatro Amazonas (テアトロ アマゾナス)は全ての材料を欧州より輸入し、欧州の職人たちの手によって1898年に完成、ブラジル初の電灯が点灯、市内には電車が走り、街には英国技術による下水排水管も敷設され、当時のブラジルでも珍しい欧州風情が溢れていた。 また1909年にはブラジル初の連邦総合大学が開講した。

 しかし、ゴム景気に沸くマナウス繁栄の裏では、当時人口5万人のマナウスで天然ゴム採取の現地労働力が不足し、東北ブラジルからの出稼ぎ労働者や国内各地から送り込まれた囚人達がジャングルの中での劣悪な労働環境で天然ゴム採集に従事していた。

 ゴム採集の元締めは地元実業家であったが、金融と流通を支配していたのは英国人であった。
そうした中で、第1次大戦後1876年に英国人探検家ヘンリー・ウィッカム(1912年ゴム移植の功績により『サー』の称号を授かった)は、ゴムの種子の禁輸政策をとっていたブラジルから七万粒の種子の持ち出しに成功、英国リバプール港に送り届けた。 英国王立植物園(キューガーデン)に運ばれた7万粒の内、2,625本の発芽に成功、その苗はセイロン・シンガポールへ送られ、後にマレーシア(植民地)に移植し東南アジアへ広がり、大農園での栽培(プランテーション)に成功した。

 栽培技術の発展とともに野性ゴムから栽培ゴムへと移行し、生産と需要が急速に拡大、1910年頃から自然採集に依存していたアマゾンの天然ゴムは価格が急落、国際競争力がなく輸出は停止、ジャングルの中の孤島マナウスは急速に衰退していくことになる。

 ところが、第2次世界大戦中に日本軍がマレー半島を占領した結果、英米は再びゴムをアマゾンに依存することになり、ブラジル アマゾンでのゴム生産が復活した。 ゴムは航空機・戦車の重要な軍需物資であり、米国はブラジルに対してゴム生産のため1億ドルを供与、軍事援助、カタリーナ水上機の配置等によるアマゾン河の輸送インフラ整備等の大型援助を行った。 カタリーナ機は、長距離輸送機としてマナウスとマイアミを結ぶ直行便に使用され、戦後も陸路のないアマゾンの交通手段の要として活躍した。

 米国は、ブラジルからゴム等の戦略物資を固定価格で買い取るワシントン協定を締結し、ゴム銀行、ゴム開発会社(RDC:Rubber Development Corporation)等いろいろな機関をマナウスに設立した。 当時は多数の米国人が常駐し、マナウス市民は RDC等米国機関への就職に群がり、市民には英語の学習熱が沸き、アメリカ煙草が流行する等、当時のマナウス市にはアメリカ文化が溢れていた。

 当時、ブラジルの最大の輸出品だったコーヒーは、1929年の大恐慌の煽りで大暴落していた (57%、価格維持のため1931年から44年にかけて7,821万俵を焼却、海中投棄)。 

 苦境にあった当時のブラジルにとりアマゾンのゴム景気の復活は、米国から多額の援助を受ける中でまさに天佑であった。
この様な状況の中で、ゴム生産のため再び東北ブラジルから大量の労働者がアマゾンに送り込まれ、19世紀末同様の過酷な労働条件の下で天然ゴム採取に従事していた。 

 ブラジルは、中南米では第2次大戦中に連合国の一員としてイタリア戦線に軍を派遣した唯一の国であり、ゴム採集のためアマゾンの密林に送られた労働者は「ゴムの戦士」とまで呼ばれた。 ところがその死者数は欧州に送られた兵士の死者数を遥かに上回ったため、ゴム採集の労働が如何に過酷であったかが語り継がれている。 

 アマゾンは、原料の生産地に過ぎず、過酷な環境で採取された天然ゴムに関する投資や取引、そしてその扱いや最終消費に至るまで、すべては第三者の手にあったと言えよう。

 やがて第2次大戦が終り、アジアでのゴム生産が復活すると、アマゾンの天然ゴムは再び衰退し、一時的なゴム景気は終焉を迎えるに至った。


 1930年代に入ると日本より農業移民が入植しインド麻(ジュート)の栽培に成功、アマゾナス州の経済は一息つく事となる。 

 1967年に至り、時の軍事政権は折からの外貨不足を補う為に、マナウスを経済特区として税制恩典を与え、工業誘致を始めた。 この計画は見事に成功し、発令当時、人口15万人だったマナウスは、約半世紀を過ぎた今、200万都市に発展している。 

 世界の有名企業、及び国内企業、約500社が進出し現在に至っている。