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ブラジル連邦共和国

更新: 2021年10月15日 12:50

【国名】

正式国名は、República Federativa do Brasil ブラジル連邦共和国)、通称Brasilブラジル)。 

英語表記ではBrazil。 漢字表記では伯剌西爾となり、と略される。 

  

 国名の由来は、ポルトガル人、ペドロ・アルヴァレス・カブラル率いる艦隊が、インド航行の途中ブラジル海岸に漂着した際、持ち帰った木の名前に由来する。 「パウ・ブラジル」と呼ばれたその木からは、貴重な赤い染料が取れ、珍重されたため「パウ・ブラジルの国」と呼ばれるようになった。

 ブラジルは、南米大陸で最大面積を占め、面積では世界第5位。 ウルグアイ、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビア、ペルー、コロンビア、ベネズエラ、ガイアナ、スリナム、フランス領ギアナ(チリとエクアドル以外の全ての南米諸国)と国境を接している。 また大西洋上のフェルナンド・デ・ノローニャ諸島、トリンダージ島・マルティン・ヴァス島、セントピーター・セントポール群島もブラジル領に属する。 国土面積は日本の約22.5倍、アメリカ合衆国よりは約110万平方km小さいが東ヨーロッパを加えた全ヨーロッパの約1.7倍に相当する。 国土の最北端と最南端と結ぶ直線距離は4,394.7km、東西のそれは4,319.4km。 大河アマゾン河は赤道のやや南方、南緯3度の線を西から東に流れており、国内流域面積は77万8,374平方kmで国土の56%を占めている。海岸線の長さは7,367km。

ブラジルの地方行政区分は、首都であるブラジリアがある連邦直轄区を含めて27州。

 

【ブラジル国旗】

 

【気候と地理的特徴】

 ブラジル国土のほとんどは熱帯・亜熱帯に属し、南緯23度30分の南回帰線はちょうどサンパウロ市の上を通過しており、地図上でサンタ・カタリーナ州とリオ・グランデ・ド・スル州だけが温帯に属する。 

1941年以降、行政的見地から地理的特徴に基づき、北部(Norte)、東北部(Nordeste)、南東部(Sudeste)、中西部(Centro Oeste)、及び南部(Sul)、の5大地方に区分されている。

南部の海岸山脈や高原等1千mを越える山地が若干あるものの、総じて険しい山岳地帯がなく、(最高峰はベネズエラ国境にあるビッコ・ダ・ネブリーナ山で3,014m)、国土の大半は波状形の高原や高地で占められているのが特徴。

 

  北部:

 北部の大部分は赤道直下型の気候で平均気温は27℃以上であり、年間降雨量はアマゾンの森林地帯で2,500~3,000ミリメートル(特にアマパ州の一部では3,500ミリメートルに達する)で高温多湿をその気候的特徴とする。 アマゾン河を中心としてアマゾン盆地、平地及び森林地帯とがあり未開発地が多い。

 

  東北部:

 東北部は、マラニョン州の高温多湿のアマゾン的気候(熱帯雨林気候)からピアウイの半乾燥地帯を経て、その大部分は平均気温26~28℃と高温で年間降雨量は500ミリメートル以下の乾燥地帯に属する。 降雨が夏季に集中するため、この気候的特徴が周期的旱魃の原因となっている。 東部の海岸に沿った旧森林地帯(Mata)とアマゾン地域に接す地域を除き、大部分はカチンガ(Catinga)とよばれるサボテンや有刺植物でおおわれた半乾燥地帯(Sertao)が広がる。

 

  南東部:

 南東部では南北に沿って、また高度差に従って対照的な気候が展開する。 年間平均気温は北部で26~27℃、南部で20℃以下と大きな差がある。 また降雨量も西部(内陸側)の半乾燥地帯から太平洋岸地域での年間2,000~2,500ミリメートルの降雨量をみるところまで様々。 サンパウロ州では冬季には気温が氷点下まで下がることもあり、降霜もみられる。 主要な山地や山脈、高地が形成されているものの、人工が集中し生産活動が最も盛んな地域である。

 

  中西部:

 中西部では平均気温は常に20℃を超え、地理的位置や起伏で22~25℃の間を上下する。 降雨量は年間、1,000~2,500ミリメートルの間で、降雨は熱帯的周期(雨季と乾季)を描いて変動する。 やせた土壌で波形状の潅木地帯のセラード(イネ科の草本と落葉低木からなる草原地域)と呼ばれるブラジル中央高原と、雨季には浸水する広大なパンタナルと呼ばれる低地湿原地帯から構成される。

 

  南部:

 南部は気候的には、亜熱帯および温帯に属するが、地理的な位置と起伏によって気温の差が激しい。 最も気温の高いのはサンタ・カタリーナ州で海岸やパラナ河の河谷で年間平均20~25℃、最も低いのは中央部・極南部で年間平均17℃前後を記録する。 降雨は年間を通じて規則的であり、南部では冬季には降雪をみることもある。 海岸山脈によって様々な幅を持つ海岸平野と南部高原から主に構成され、海岸平野では農業生産が盛んである。

 

 

【首都】 
 首都はブラジリア。 ゴイヤス中央高原の海抜1,152m、南緯15度46分47秒、西経47度55分7秒に位置している。 2017年3月1日現在の人口は297万7千人。 ブラジリアは1956年、当時のジュセリーノ・クビチェック大統領によって建設が決定され、4年後の1960年4月20日に遷都された。 ブラジル人建築家ルシオ・コスタの設計により建築、飛行機型に配置された機首の部分に国会議事堂や行政庁舎、最高裁判所が並び、翼の部分には高層住宅や各国の大使館がある。 国会議事堂や大聖堂などの主要建造物は、いずれも未来的なデザインが取り入れられ、これらの公共建築の主任建築家は、ニューヨーク市の国連本部ビルの設計も担当したブラジル人建築家オスカー・ニーマイヤーである。

 国土中央に位置するブラジリアと主要各都市は幹線道路で結ばれており、南北両地域の中継点となっている。

 

【人口】
 2億1372万4600人(2021年10月現在)、南米大陸では最大の人口を擁する。
出所:2021年10月ブラジル地理統計院(IBGE)国勢調査結果報告

 

【言語・宗教】
 公用語はポルトガル語。 南北アメリカ大陸で唯一のポルトガル語圏の国であり、同時に世界最大のポルトガル語使用人口を擁する。

宗教はカトリックが64.6%、プロテスタント:22.2%、その他の宗教5.2%、無宗教8%

 (2010年 IBGEデータ)。

 

【通貨】
 使用通貨は、1994年7月1日以降、REAL(レアル)、複数表示はREAIS(レアイス)となる。

表示単位は(R$)。 補助通貨単位として1/100レアルに等しいCENTAVO(センターボ)、複数表示はCENTAVOS(センターボス) となる。

すべてブラジル中央銀行 (Banco Central do Brasil) によって発行される。 国際通貨コードはBRL

 

主要産業

繊維、靴、化学、セメント、木材、鉄鉱石、錫、航空機

GDP 構成比

一次産業(農林水産) 5.5%

二次産業(鉱業、電力を含む)  26.4%

三次産業(通信や金融、小売などサービス関連)  68.1%

出典: CIA‐The World Factbook

 

【ブラジルの歴史】

ブラジル発見

 南米大陸には、インカやアステカなどの古代帝国が栄え、また別の文化を持つ先住民族「インディオ」が独自の社会を築いていた。

しかし1500年にポルトガル人ペドロ・アルヴァレス・カブラルにより発見された。

ポルトガル人は、染料や貴金属を求めて鉱山開発やインディオたちとの交易を始めた。 その後、ポルトガルの影響を大きく受けていくことになる。

 

 1530年、フランスによる北東部侵略に刺激されたポルトガル王室は探検と調査を開始、ブラジルに総督府を置くことで、フランスの侵攻を防いだ。

 1548年、ブラジルはポルトガル国王の直轄地となり勢力を拡大、1549年にはサルバドールに総督を置いた。

 1554年にはサンパウロ市が建設され、1565年にリオデジャネイロ市が建設される。

 

ポルトガル人によるインディオ抑圧

 1570年頃、染料の元となる木を伐採しつくしたポルトガル人は、次にサトウキビの栽培と砂糖の精製を試みるようになり、サトウキビ畑や製糖工場などで黒人やインディオに奴隷労働をさせるようになっていく。

イエズス会修道士によるカトリックの布教や初等教育が行われる裏で、総督府の人間は布教先の村からインディオを奴隷として働かせるために、連れ去り売買していたと同時に、アフリカから黒人を奴隷船で運んだ。

一方、ポルトガル人とインディオや黒人との間に生まれた「ムラート」と呼ばれる混血児も多くなっていく。

 

 その後、1580年にポルトガルがハプスブルク朝スペインとの合同王国になったため、間接的にブラジルもハプスブルク家のものとなった。

しかし、当時スペインの支配下にあったオランダ人が、スペインの国力弱体化を狙ってブラジルに侵入してきたため、ブラジル人は抵抗運動を起こすことになる。

一度スペインとオランダの間で休戦がなされたものの、それが切れるとオランダ西インド会社が設立され、再びオランダが食指を伸ばし始めた。

しかし、ポルトガルの影響で、ブラジル人はカトリックが多かったために、プロテスタントであるオランダ人を受け付けず、抵抗を続けた。

 

 このブラジル対オランダの争いが落ち着いた頃、ヨーロッパではポルトガル本国がスペインから独立する。

ときのポルトガル王、ジョアン4世はオランダと和平を結んだが、オランダ西インド会社はブラジルから撤退しようとはせず、ブラジル人の抵抗が続いていた。

これに対し、ジョアン4世はブラジルを公国に格上げし、ポルトガル皇太子に「ブラジル公」の称号を与えて名目的な後押しを行うことにより、侵攻したオランダの攻撃をようやく排除し、ブラジル文化が生まれ始める。

1654年、オランダは賠償金と引き換えにブラジルから撤退した。

 

 対外的な危機は去ったものの、この時代もアフリカより黒人奴隷が送られてきていて、同じくポルトガル領になっていたアフリカ・アンゴラから大量に黒人が連行されており、ポルトガルの勢力圏が平和になったとはいえない状況だった。

黒人たちも、ブラジルに連れてこられてからも頑強に抵抗し、内陸部に独自の集落を作ることもあった。 中には、白人・黒人・インディオ全ての民族が住むような街もできたが、ポルトガル軍による総攻撃で滅ぼされた。

この頃より、ポルトガル・アフリカ・インディオの三つの文化が交じり合い、ブラジル独自の文化が形成されていった。

しかし、有色人種や女性の地位、立場が極めて弱いまま固定され、これは最近までブラジルの大きな社会問題となっていた。

 

 更に時代は進み、ポルトガルがイギリスとの同盟で不利な立場に置かれることとなったため、その穴埋めとしてブラジルからの搾取が過酷になっていく。

1729年には、ポルトガル人によってブラジル南部で金やダイヤモンドの鉱山が発見され、いわゆるゴールドラッシュに沸き、ブラジルは空前の繁栄を遂げる。 その裏では採掘、その他の重労働で、再びインディオや黒人が奴隷として酷使されるようになった。

最終的には、このブラジルからの富もイギリスに流れていくこととなり、これがイギリス産業革命の資金になったといわれている。

 

 1750年からはインディオの奴隷化禁止や人頭税の廃止など人道的な政策も行われるようになり、この頃フランス領だったアフリカ、ギアナからコーヒーが移植され、ブラジルに大規模なコーヒー農園も作られるようになり農業が息を吹き返す。 その他、綿花の生産が増加し綿織物も多く作られるようになる。

 

 当初から世界各地での宣教活動を重視していたイエズス会は、宣教師たちを積極的に各地に派遣した。   ブラジルでの布教活動を進め、キリスト教徒になったインディオに初等教育を行ない、また他部族やヨーロッパの奴隷商人の襲撃から守るため保護統治地をつくりインディオを保護しようとするイエズス会員は、スペインとポルトガルの奴隷商人及びそこから利権を得る政府高官にとっては目障りな存在であった。 アメリカ大陸におけるイエズス会の宣教活動はヨーロッパ諸国(特に広大な植民地を保持していたスペインとポルトガル)の利害とかかわることとなり、内政干渉という口実で、のちにポルトガルからイエズス会への迫害が始まりブラジルから追放されてしまったため、国民の教育水準が下落し、ブラジル人の地位は上がらないままに肉体労働に従事することとなる。

 

 またアメリカ独立やフランス革命などを知ったブラジルの人々は、自らの手で独立を望むようになっていく。 しかし、当時のブラジルには、大学などの高等教育機関がなかったために、独立運動を起こそうにも団結することができず、また密告による首謀者の処刑などで、まとまった反乱を起こすことすら困難な状況だった。

 

ナポレオンの本国侵攻とブラジルの独立

 1763年、首都がリオデジャネイロへ移る。

本国ポルトガルがナポレオンと対立したことで、1808年、ナポレオンのポルトガル侵攻に伴い、本国ポルトガル王室が、ブラジルに逃避しリオに王室を移転した。

王室が来たことにより、リオデジャネイロは急速に公共機関や娯楽施設が整備され、新聞も発行されるようになる。

その一方でポルトガル人とブラジル人の対立は深まり、王室はそれを解決することなく海外移民を奨励したため、更に動乱を生じさせる結果となった。

 

王政が代替わりしブラジル人の地位は少しずつ上昇し、ブラジル人たちは次第に共和制を求めるようになっていった。 この時期にいくつかの反乱が起きているが、すぐ鎮圧されていた。

 

ブラジル帝国として独立

 1820年にポルトガル王は本国へ帰国。 皇太子ペドロがブラジルに残されたことで、ブラジルは大きく前進していく。

ペドロは気さくで質素な人物だったとされ、ブラジルに来てからも街中に出て庶民と直に接することもあり、ブラジル人からも人気を得ていた。 王室が本国に帰るときには、8000人ものブラジル人が「皇太子のブラジル残留要請」という署名嘆願をしたという。

 

 後にペドロはブラジル人たちに説得されて独立を決意。 本国の意に反し、1822年9月7日にブラジル帝国の皇帝・ペドロ1世として即位することとなった。

まさに「子が独立した」形になったため、周辺諸国との衝突や混乱は起ることはなかった。

 

 しかしこれがうまくいったのも束の間のことであり、ブラジル人に後押しされて皇帝になったペドロだったが、その後、ポルトガル人を優先し始めたため、ブラジル人に反感を買い、反乱を起こされてしまう。

1831年には宮廷前で暴動が起き、ペドロは後継者として5歳の皇子を指名して退位しポルトガルに帰国した。

1840年、その皇子は、なかなかの聡明さを見せペドロ2世として即位し、15歳から親政を行った。

 

皇帝は廃位され共和制に

 1888年、ペドロ2世は、リベラルな君主として黒人の奴隷制を廃止したが、これがカトリック教会や奴隷を使っていた地主たちの反感を招く結果となり、クーデターにより廃位となる。 皮肉にも、クーデター以前に行っていた三国同盟戦争(パラグアイ戦争)の勝利により、軍部が力をつけたことが大きな要因となった。

 

 晴れて共和制になったブラジルだが、当初はサンパウロ州とミナスジェライス州という二つの有力な州が交互に大統領を輩出し、平穏な情勢が続いた。

サンパウロ州がコーヒー栽培、ミナスジェライス州が畜産・酪農を主産業としていたため、この時期の政治体制を「カフェ・コン・レイチ」(カフェオーレの意)と呼んだ。

しかし、交代制とはいえ実質的には寡頭政治だったため、やがて他州の反感を招き、カフェ・コン・レイチ体制は終わりを告げた。

 

 1889年、軍部による無血クーデターにより共和制が起立し、1891年の憲法発布後の議会により、テオドロ元師が初代大統領に選ばれる。

 

大きく変遷するブラジル

 カフェ・コン・レイチ体制に入ったばかりの1895年に日本とブラジルは国交を樹立し、修好通商航海条約を結び、2年後に互いの公使館が設置されている。

1930年、国内の不況が深まり、ジェツリオ・ヴァルガスを中心として革命が勃発、1934年にはジェツリオ・ヴァルガスにより第2次共和国憲法が制定される。

1946年、第2次大戦後、国民の要求により民主憲法が発布される。

1956年、ジュセリーノ・クビチェック氏が大統領に就任し、ブラジリアを新首都とする建設に着手した。

社会情勢が悪化し、1964年には軍部によるクーデターが勃発しカステロ軍事政権が成立。

 

 しかし、軍政も行き詰ることとなり、1985年、大統領選でタンクレード・ネーヴェス候補が圧勝するも、急死により副大統領のジョゼ・サルネイ氏が大統領に昇格、21年ぶりに民政が復活したが、サルネイ大統領は多くの経済政策の失敗から、月間80%を超えるハイパーインフレを招く結果となり、1990年、任期切れを持って退任した。

 

 その後、コーロル政権、フランコ政権を経て、ハイパーインフレと大きな社会不安を残したまま外相・蔵相経験者のカルドーゾ大統領に引き継がれる。 1995年、レアルプランの導入によりハイパーインフレを押さえ込むことに成功、経済の安定化を成し遂げ、この成功を背景にカルドーゾ大統領が安定政権を維持し、世界的な好景気の波に乗り、ブラジルは急激な経済成長を遂げていく。

 

 2003年、労働者党によるルーラ政権が発足。 年金改革、税制改革、貧困削減に取り組み、2期連続して政権を維持、同じ労働党のジルマ政権に引き継ぐことになったが、2期目を迎えたジルマ大統領は、2016年に汚職による弾劾裁判で、任期を全うすることなくテメル副大統領に政権を引き継いだ。

 

日本からの移民とブラジル社会を支える日系ブラジル人

 1908年(明治41年)から日本政府の後押ししたブラジルへの集団移民が開始されてから、現在、その子孫たちが日系5世・6世となっている。 現在、ブラジル全土の日系人は約160万人で、サンパウロには世界最大級の日本人街(リベルダーデ地区)もある。

第二次世界大戦時、日本との国交は一時途絶えることとなったが、戦後は国交が回復し、現在は、日系人が公的な地位につくことも珍しくなくなった。

 

 ブラジル移民110周年を迎えた2018年(平成30年)には、各国で記念行事が開催されている。

近年のブラジル経済の発展は目覚しく、ラテンアメリカ最大の経済規模であり、同時に世界で7番目の経済規模にまで成長したが、2017年現在、ブラジル経済の悪化により9位に下落。

 

 ブラジルには日本企業の進出も盛んで、それにともなって長期滞在や永住している日本人も多く、その子供たちが通う日本人学校もたくさんある。

また、ブラジルから日本にやってくる人も多く、約18.6万人(2017年6月現在)が日本国内に滞在している。